高知地方裁判所 昭和52年(ワ)140号 判決 1984年6月28日
原告 甲野太郎
右訴訟代理人弁護士 徳成寿男
右訴訟復代理人弁護士 山下訓生
被告 高知県
右代表者知事 中内力
被告 国
右代表者法務大臣 住栄作
被告両名指定代理人 西口元
<ほか三名>
被告高知県指定代理人 山本文雄
<ほか六名>
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは連帯して原告に対し金九一五万円及び内金七二五万円に対する昭和四八年二月一三日から、内金一九〇万円に対する昭和五二年五月一四日からいずれも支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 主文同旨
2 被告ら敗訴の場合、担保を条件とする仮執行免脱宣言
第二当事者の主張
一 請求原因
1 原告を被告人とする強要未遂被告事件の概要
(一) 原告は、昭和四八年二月一三日、高知県須崎警察署(以下「須崎署」という。)司法警察員奥村康が須崎簡易裁判所から別紙(一)記載の被疑事実の要旨(以下「本件被疑事実」という。)について前日発付を受けていた逮捕状に基づいて通常逮捕され、ついで、同月一五日、高知地方検察庁検察官野田一雄(以下「野田検事」という。)が高知地方裁判所から右同被疑事実について発付を受けた勾留状に基づいて勾留された。
(二) その後、原告は、須崎署警察官及び野田検事から取調べを受けたのち、身柄拘束のまま、同年三月三日、同検事によって別紙(二)記載の公訴事実(以下「本件公訴事実」という。)について高知地方裁判所に公訴提起された。
原告は、同月六日に保釈された。
(三) 同裁判所は、昭和五一年九月九日、右強要未遂被告事件(以下「本件公訴事件」という。)につき原告に対し、本件公訴事実を認めるに足りる証拠がないとして無罪の判決を言い渡し、同判決は同月二四日確定した。
2 須崎署警察官及び検察官の違法行為
(一) 捜査官による虚偽事実の捏造
(1) 甲野松夫及び乙山竹夫は、昭和四七年一月一三日、次の公訴事実により高知地方裁判所須崎支部に対して公訴を提起された(以下「須崎事件」という。)。
① 被告人両名は、共謀の上、昭和四六年一一月三日午後七時ごろ、高知県高岡郡中土佐町《番地省略》被告人乙山竹夫方前附近道路において、同所に停車中の普通乗用自動車運転席から同車右側路上にいた丁原梅夫と話をしていた丙川五郎(当二一年)に対し些細なことで激昂し、こもごも手拳で同車運転席右側ドアーの窓ごしに同席にいた同人の顔面を殴打し、更に下車して逃げだした同人の右大腿部に石を投げて同人をその場に転倒させたうえ、倒れた同人に馬乗りになって手で同人の首を締めたり、所携の板きれで同人の両前膊を数回殴打する等の暴行を加え、よって同人に対し加療約三〇日間を要する左顔面打撲傷、両前膊打撲傷等の傷害を負わせた。
② 被告人甲野松夫は、同日午後七時三〇分ごろ、右同所において右丙川五郎の連れの乙山春枝(女当二一年)が被告人両名の右丙川に対する前示暴行を見かねて附近の者に助けを求めたのに激昂し、右乙山春枝が附近にとめてあった右自動車の前部座席に逃げ込むや、その後を追い、手で同女の頭髪を掴んで後方に引張り、もって暴行を加えた
ものである。
(2) しかしながら、須崎事件の公訴事実は、次に述べるとおり須崎署警察官らにより捏造されたものである。
① 須崎署上ノ加江駐在巡査岡正二(以下「岡巡査」という。)は、丙川五郎が常々単独あるいは「矢井賀五人組」と称する集団で、善良な中土佐町町民に暴力行為によって危害を加え、町民をして暴力団的行為をもって畏怖せしめていたから、同人の暴行、傷害の事実があったときは直ちに捜査すべき職務があったにもかかわらずこれを怠ったばかりでなく、常日ごろ同人らと飲食をともにして、町民の非難をうけていた者である。
② 昭和四六年一一月三日午後八時ころ、右丙川五郎は、中土佐町上ノ加江堤防上において、当時内縁関係の噂のあった乙山春枝(現在は結婚して丙川春枝)を乗用車に同乗させて駐車中、翌日の出漁のための天気を見に来た乙山竹夫、甲野松夫両名が通路を妨害する駐車状態をみて「こんな所へ車を置いたら困るねや。」と話し合ったのを聞きつけ、突然降車するや、キックボクシングの格好で両名に対し足蹴りの暴行を加え、あるいは附近に放置されていた棒切れをもって殴打し、これがため甲野松夫は加療五日間、就労不能一か月の右手腕部打撲創の傷害を受け、さらに同日午後一〇時過ぎころ右丙川は上ノ加江農協前附近の中心街において、数名の者に対し大声を発しながら鉄棒を振り廻し、あるいはビール瓶を次々と割った破片をもって殴打する等の暴行を加えて町民を恐怖におちいらしめた。
③ 岡巡査は、町民の訴えから右暴行事件を知り、翌一一月四日には甲野松夫を被害者として調書を作成し、丙川五郎に対する被疑事件を捜査するかにみえた。
④ 然るに、被疑者が丙川五郎であり日ごろ親しかったところから、逆に丙川五郎が乙山竹夫、甲野松夫両名から暴行、傷害を受けたとの虚偽の事実を捏造し、しかも、丙川五郎が堤防上で乙山竹夫、甲野松夫に加害に及んだ時刻には右現場に不在であったことが明白である丙川と親しい訴外丁原梅夫を目撃証人として、岡巡査、丙川松夫、乙山春枝、丁原梅夫共謀のうえ、(1)項記載の公訴事実と同旨の虚偽の事実をもって同年一二月一七日乙山竹夫、甲野松夫両名を逮捕し、翌一八日には逃亡のおそれを理由に勾留状を請求して、当時の須崎区検察庁菊池副検事は同令状を執行した。
⑤ しかし、乙山竹夫、甲野松夫両名に対し丙川五郎が加害に及んだ事実は、たまたま原告が詳細に目撃しており、当時堤防上附近にいた多数の町民もまた事実を目撃していたもので、乙山竹夫及び甲野松夫は丙川五郎を取り押え警察(駐在所)へ連行せんとしたが、丙川五郎の友人が「許してやってくれ。」と謝罪したのに応じて許したものであること、丁原は浜公会堂で二十数名の者と泥酔状態で飲酒しており現場に不在であったことが町民間で明白であったことから、ここに駐在巡査のデッチあげ事件を直感した町民は、右両名逮捕と同時に「暴力追放!」「些細な暴力でも警察へ!」の標語に背理する須崎署員並びに副検事の身柄監禁の逮捕行為に対し、連日の抗議をするとともに、両名の即時釈放を要望した。
⑥ そうした町民の言葉に謙虚に耳をかそうとしない須崎署員及び高知地方検察庁須崎支部検察官菊池副検事は、昭和四七年一月一三日乙山竹夫、甲野松夫を(1)項記載の公訴事実により高知地方裁判所須崎支部へ起訴するにいたった。
(3) 須崎事件第六回公判(昭和四七年一一月七日)において、検察官から、原告が現場に不在であった事実及び被告人甲野松夫が乙山春枝に謝罪した事実等を立証する趣旨で、岡巡査、乙山春枝、乙山春子等の証人申請がなされ、高知地方裁判所須崎支部はこれらを採用し、証拠調を昭和四八年一月二九日午前一〇時三〇分から上ノ加江公民館で行う旨決定した。
(4) 原告は、右期日に証人となる予定であった乙山春子(乙山春枝の実母)、乙山春枝母子(以下「親子」ともいう。)とは、乙山春子の亡夫乙山春夫と特別に親しい間柄で、同人が死亡する直前、同人から原告に自己死後の母子の面倒をみて欲しいと遺言されたこともあって、その後格別の厚情をもって面倒をみてきたもので、母子は原告に深い信頼を寄せていると思い、かつ右両名を深く信頼していたものである。原告は、そうした特別な関係にあった乙山母子から日常種々の相談を受け、昭和四六年一一月六日には乙山春子、乙山春枝両名から甲野松夫と乙山春枝との間の仲裁を依頼されて円満解決した事実があり、その時の状況を明らかにすれば、おのずから①原告が丙川五郎の加害行為を目撃した事実②甲野松夫が丙川五郎に投石したのを目撃したという乙山春枝証言が誤っている事実③丁原が現場にいたことはないため当時丁原がいたことは全然話題になるはずもなかった事実等が明らかとなり、結果的に事案の真相が明らかになるところから、昭和四八年一月二九日乙山春枝、乙山春子が上ノ加江町民の面前で証言するに際して(被告人のみならず上ノ加江町民は公開されると思い多数傍聴にいったが、非公開とされた。)、昭和四六年一一月六日の交渉の経過をありのまま証言してくれるものと期待した。
(5) 昭和四八年一月一〇日、原告はたまたま乙山春子から乙山春枝の縁談話で相談を受け、その話から同月二九日乙山春子が証言する事項に発展し、その内容が昭和四六年一一月六日の原告仲裁の際の状況であると推定されたところ、乙山春子は原告に対し、「一一月六日の事実の要点を書面にまとめ、それにもとずく証言をすれば、誤りのない証言ができるから、要点を書面にまとめ、それにもとずいて弁護人に尋問してもらってはどうか。」とすすめ、原告も同意見に従い、昭和四六年一一月六日、甲野松夫と乙山春枝との間で行われた話合いの状況を「確認書」と題する書面にまとめ、これが事実に相違しないか否かを立会者全員に確認して貰うべく、事実に相違ないことを確認した関係者に対し自発的意思による署名捺印を求めんとした。
(6) 昭和四八年一月一五日、原告は妻甲野花子を通じて乙山春子に右確認書を交付したが、その際、
① 記載内容を充分読んでもらう。
② 内容に誤りがあるときは、自己の判断で正しいと思うものに修正することは全く自由である。
③ 自ら進んで押印する意思がなければ押印の要はない。
の三点をとくに伝えるよう申し添え、甲野花子もこの趣旨を誤りなく伝言し、乙山春子もその点は充分了承してこれを受領した。
(7) 確認書の記載内容が事実の経過に従って正確に記載されていることから、
① 須崎事件の犯行日とされている昭和四六年一一月三日の直後である同月六日に、甲野松夫は丙川五郎から不意に攻撃され、傷害を受けて、自分が被害者であることを主張していたことが明らかで、起訴された後にかかる主張をし始めたものでないこと
② 乙山春枝は、「丙川に対し、甲野松夫は石を投げた。」との主張をしたが、甲野松夫から「石を投げようにも舗装道路で石はない。嘘も程々にしなさい。」と叱責され、原告から「自分の見たところでは保育園児の様な喧嘩であった。甲野松夫は石を投げていないから石を投げたというのは取消しなさい。」といわれて、「丙川が石を甲野松夫に投げられたというのを聞いたのでそう言ったが、見てないから取消す。」と述べたこと、
③ 「丙川五郎、乙山春枝の両名と丁原梅夫との話中に喧嘩と称するものが始まった。」との話は全くなく、丁原梅夫が当初から居たことがその後に捏造されるとは全く予想もしていなかったこと、
④ 乙山春枝は、「甲野松夫に髪を引っ張られた。」と主張し、甲野松夫は「髪を引いてはいない。デタラメを言うな。」と主張して激しい口調があった事実及び原告の仲裁で、甲野松夫は「髪を引いたことは全然記憶にないが、引いていたら悪いからこらえてや。」と言ったことで、乙山春枝も「はい承知しました。」と了承し、万一、髪を引いていたとしても髪を引っ張るという暴行の故意までなかったことを乙山春枝も承知して了解したこと、
等が充分明白となった。
そうなれば、須崎事件の公訴事実は根底から覆るが、同事件の事実が明らかになれば、その逮捕、勾留、起訴がデッチあげの結果によるものとして、上ノ加江町民間でいっそう激しい非難の的となることは火をみるよりも明白な事実であった。
(8) 昭和四八年一月二八日、丙川五郎の実父である丙川一郎は乙山春枝の所持していた確認書を見るや、同書面を須崎署松井警部補のもとへ持参し、「事実が明らかになれば大変だ。」と考えた丙川一郎と須崎署警察官らは、
① 一月二九日に須崎事件の証人となることが決定している乙山春枝、乙山春子母子に対し、原告は一月二八日、虚偽の内容を記載した確認書と題する書面へ、無理に署名捺印をせまり、いやがる母子を脅迫して電話をかけてきた。
② 回数は同日夕刻迄に数回電話をかけてきた。
③ 上ノ加江駐在は右母子から脅迫を受けた旨の電話があったとして須崎署へ報告する。
④ 乙山春枝、乙山春子は原告に電話をかけ、原告と電話による応答の事実を作り、原告から脅迫の電話を数回かけて、あくまでも確認書へ署名押印をせまったことにする。
⑤ 確認書は、原告が勝手に作った虚偽の事実を記載したもので、須崎事件での証人に偽証させることを目的としたものであるとする。
⑥ 上ノ加江駐在所巡査の須崎署への報告書、乙山春枝、丙川一郎、乙山春子の調書が出来次第、電話による脅迫によって確認書へ署名押印するよう強要したとの被疑事件で原告を逮捕する。
等の事実を共謀し、こゝに本件被疑事実を捏造した。
(二) 逮捕、勾留、接見禁止及び公訴提起の違法
(1) 須崎署警察官は、捏造した被疑事実により原告を逮捕し、野田検事は同事実により原告に対する勾留請求をなし、更に本件公訴事実について原告に対し公訴提起をなし、昭和四八年二月一三日から同年三月六日まで違法に原告の身柄を拘束した。
(2) 同検事は原告の身柄を同年二月一五日高知刑務所に移監するとともに、同日原告の弁護人に対し、接見等に関する指定書(いわゆる一般的指定書)による違法な指定処分をなして、原告が弁護人と接見交通する法上の権利すらも違法に阻止した。
同検事は、すでに原告代理人が弁護人であった高知地方裁判所昭和四七年(む)第三四五号一般的指定書取消申立事件で、同年一二月一五日一般的指定書による接見等に関する指定は違法である旨の決定を受けており、「再度の一般的指定処分は違法で許されない。即刻取消をされたい。」旨を同代理人より注意されたが、法の遵守を要求した原告代理人に対し、「違法であると判断した裁判所が誤りであり、かかる誤った裁判所の決定に従う義務はない。」と強弁する状況で、原告の人権侵害など豪も意に介さない不法極りない行為があった。
同検事のおよそ検察官とも思われない無法さは、もはや論外という外はなく、原告代理人がいかように説得してもこれを聞きいれようとしないばかりか一般的指定によって法上の弁護権を現実に阻止したので、同年二月二四日、原告代理人は再度右一般的指定に対する準抗告の申立をしたところ、同日高知地方裁判所は、右指定処分を取り消す旨の決定をした。
(三) 原告のアリバイ主張に対する捜査官の捜査と偽証
(1) 原告は、須崎署員及び検察官に対し、
① 乙山春子、乙山春枝らに対し電話をかけたことがないこと、捜査官の主張する日時に原告は須崎造船所へ行って不在であったこと、
② かえって、夜一一時前後に、乙山母子及び丙川一郎から、原告にとっては思いもかけない合計六回にわたる非常識極まりない電話がかかってきたこと、
等の事実を具体的に説明し、身柄拘束される理由のないことを詳細に反論した。しかし、原告の詳細な事実の供述に対し、当時の須崎署長は原告が無罪になったときはすべての責任をとる旨を公言し、更に、原告のアリバイ主張を警察から造船所へ電話で確認した結果、原告主張どおりであり、本件被疑事実記載の日時に原告が乙山母子へ電話することはありえなかった事実が明白となるや、捜査官はそれらの事実を秘匿して、虚偽の事実で公訴を提起するための違法捜査を継続した。
(2) 原告を被疑者として取り調べた正木鶴松警部補(以下「正木警部補」という。)は、本件公訴事件の公判において証人として証言した際、原告からアリバイの主張がなかったのでその捜査をしていない等述べて偽証した。
3 被告らの責任
須崎署に勤務していた警察官の故意又は過失による違法な公権力の行使については被告高知県が、検察官のそれについては被告国が責任を負うべきである。
4 原告の損害
(一) 原告は、家業として定置網漁網四統を敷設して、漁業に専念するものである。
(二) 漁網四統流失及び破損による損害 金四四〇万円
原告は、違法に逮捕、勾留という身柄拘束によって、逮捕時①一四〇万円、②一二〇万円、③一〇〇万円、④八〇万円各相当の定置網四統を敷設していたが、長期にわたる身柄拘束によって④の網は流失し、①ないし③の網は上ノ加江町民が海浜まで引揚げてくれてはいたものの、既に大破しており、漁網の効用を失い、すべてを新調せざるをえなかったが、これらの損害は四四〇万円を下らない。
(三) うべかりし利得の喪失 金八五万円
原告は、昭和四八年二月一三日以降長期にわたる身柄拘束及び昭和四八年三月三日起訴以降昭和五一年九月九日の無罪判決まで就労不能による損害として金八五万円の損害を蒙った。
(四) 弁護人の費用 金一三〇万円
原告は、昭和四八年二月一三日、原告代理人を弁護人に選任し、同月二一日着手金として金二五万円を支払い、さらに同月二三日藤原充子弁護士を弁護人に選任して、同月二六日金二五万円を同じく支払った。
しかも、事件がいわゆるデッチあげ事件であり、検察官は理由なき一般指定処分によって法上の弁護権を制限し、あるいは捜査官が虚偽事実の明白な参考人調書を作成し、あるいは偽証するなどして訴訟行為の遂行をはかったため、被告人が無罪となるためには弁護人の長期にわたる活動を余儀なくされ、無罪判決に対する報酬として藤原弁護人に昭和五一年九月一六日金三〇万円を、主任弁護人たる原告代理人に同年一〇月三日金五〇万円を支払った。
(五) 慰謝料 金二〇〇万円
原告は、逮捕されて以降、いかに被疑事実が真実と相違しているかを具体的事実によって主張しても、警察官、検察官は謙虚に耳をかそうとしないばかりか、「無罪となったら、いかような責任でもとる。」(須崎署長)、「お前のいうとおりじゃったら無罪になる故、お前のいうとおり調べるわけにはいかん。専門は専門に委しておけ。」(野田検事)等の暴言と違法な捜査、起訴を受け、あまつさえ身柄拘束をされ、長期にわたり無罪判決まで被告人の地位にあったのであり、その精神的苦痛ははかり知れない。金二〇〇万円は最少限度の慰謝料である。
(六) 弁護士費用(本件着手金) 金六〇万円
原告は、警察官及び検察官による前叙の不法な逮捕、起訴等による損害賠償請求事件を原告代理人に昭和五一年一〇月三日委任し、着手金として金六〇万円を支払った。これは、被告らの不法行為による損害として当然原告に支払われるべき損害である。
5 よって、原告は被告らに対し、国家賠償法第一条第一項に基づいて、金九一五万円及び内金七二五万円(4の(二)、(三)、(五)の合計)に対する不法行為の日である昭和四八年二月一三日から支払ずみまで、内金一九〇万円(4の(四)、(六)の合計)に対する訴状送達日の翌日である昭和五二年五月一四日から支払ずみまでいずれも年五分の割合による遅延損害金を連帯して支払うことを求める。
二 請求原因に対する被告らの認否及び主張
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2(一)については、(1)、(3)、(6)(ただし②は不知。)の事実は認めるが、その余は争う。
3 同2(二)(1)は争う。
(1) 須崎署刑事課刑事係長正木警部補は、捜査主任官として、原告が乙山春枝らに対して確認書への押印を強要したか否かについて、乙山春枝、乙山春子らの供述の信憑性、原告が確認書を作成してこれに押印を求めるに至った動機、原因、経過等を客観的に検討したところ、
① 乙山春枝、乙山春子の両名は、原告から脅迫電話を受けて間もなく、その状況をそれぞれ警察官に届け出ていること、
② 乙山春枝に対する脅迫については、電話の傍に居た丙川一郎が脅迫電話の内容の一部を聞き、また、その直後乙山春枝からその内容を聞いていること、
③ 確認書は、須崎事件の上ノ加江公民館における証拠調期日(昭和四八年一月二九日)において、同事件の被告人のために利用されることが予想されており、このため、原告は右確認書を以前から作成して、乙山春子らに押印を求めてきていた経緯があり、本件脅迫は、右証拠調期日の前日に迫って行われていること、
④ 須崎事件の被告人甲野松夫は、原告の従兄弟に当たる者であり、原告は同事件の捜査、公判の過程において積極的に甲野松夫を擁護支援する活動を行っていたこと、
等の事情が認められたので、正木警部補は、原告に強要の犯行があると判断した。
このため、正木警部補は、原告が確認書へ押印を求める際に乙山春子に対して「甲野松夫、乙山竹夫が罪につくかつかんかということじゃ。」と述べていることなどから、確認書が右両被告人の裁判に有利な資料として利用されるものと考えられ、本件が裁判の公正を害する悪質な事案であること、また任意捜査では原告が乙山春枝らに種々の圧力をかけて罪証を隠滅するおそれがあると判断した。正木警部補の上司である同署刑事課長奥村巌警視も右同様に判断し、原告を本件被疑事実によって、刑法第二二三条の強要未遂罪により、昭和四八年二月一二日、須崎簡易裁判所裁判官に対して、被害者乙山春枝の供述書等の資料を添付して、刑事訴訟法第一九九条に基づき逮捕状の発布を請求した。そして、発布を受けた逮捕状により、須崎署池田寛巡査が、翌二月一三日、原告を自宅で通常逮捕した。
右逮捕後の同日、同署において正木警部補は、原告に同法第二〇三条による弁解の機会を与えたところ、原告は、確認書に乙山春枝の印を押してもらうつもりはしていたが、同女が押印を断ってきたことはなく、原告も同女を脅かしたことはない旨供述して犯行を否認し、翌一四日の取調べにおいても原告は同警部補に対し、乙山春枝、乙山春子に確認書への押印を依頼したこと、一月二八日夜、同女と電話でのやりとりのあったことは認めたが、同女らを脅迫した覚えはないと、犯行を否認した。
しかしながら、須崎署長は、被害者、関係者の供述により、原告が乙山春枝に対し脅迫をなしたものと認め、同署長は、本件被疑事実の強要未遂罪として、起訴相当の意見を付して、原告の身柄を、書類及び証拠物とともに、同日高知地方検察庁に送致した。
以上の手続に違法な点はない。
(2) 右事件の送致を受けた高知地方検察庁においては、同日右事件を受理し、野田検事を主任検事に指定した。
同検事は、刑事訴訟法第二〇五条第一項に基づき、原告に弁解の機会を与えたところ、原告は「甲野松夫、乙山竹夫両名の公判を有利にしようとしたことはない。一月二八日の夜乙山春枝から電話があった際、確認書の件は話の中に出なかった。従って怒って脅迫文句で怒鳴りつけたことはない。」旨弁解し、犯行を否認した。
同検事は、送致記録中の各証拠に基づいて、原告が本件犯罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由を肯認できるところ、原告において、右のような単なる弁解のための弁解をして犯行を否認しているだけでなく、原告は、漁業に従事するかたわら、地元漁業協同組合の監事をしており、地元では隠然たる勢力をもっているうえ、原告の遠縁に当たる甲野松夫、乙山竹夫が、須崎事件の被告人として公判中であるところから、右被告人らの立場を有利にしようとして、かねてから関係者に圧力をかけ画策しているとの風評があったこと等の事実に照らし、同法第六〇条第一項第二号、第三号に該当する事由があると判断し、原告につき同年二月一五日、高知地方裁判所に勾留請求をした。
同裁判所裁判官は、右請求にそれぞれ相当な理由があると認めて、右勾留請求を認容し、勾留状を発布したので、同日勾留状を執行して、原告を高知刑務所に勾留した。
(3) その後の捜査の結果、本件の問題点は、原告の、被害者乙山春枝に対する電話による詰問が、確認書をめぐって同女に危害を加えかねまじき情況下においてなされたかどうかにあると思料されたが、乙山春枝は、原告は「確認書についてどこが間違ごうておらあ、その文章を今読んでみよ、どうしても判をつかんと言うがじゃったらこっちにもやり方がある。お前ら親子はどうなるか判らんぞ、覚えちょけ。」とカンカン怒鳴ってガチャンと電話を切ったが、その後、原告が恐ろしかったので、すぐに警察に届け出の電話をした旨検察官に供述し、同女が脅迫電話を受けた際その近くにいた丙川一郎も、原告は「判をつかにゃつかんでもえいきに、こちらには考えがある。そのつもりでおれよ、お前ら親子がどうなるかわからんぞ、覚えちょけ。」と乙山春枝に言っていた旨、同女の前記供述にそう供述を検察官にしており、同女は、本件の原告からの電話の直後に須崎署に対し被害申告をしていること、などを合わせ考慮すると、乙山春枝らの供述は十分措信できると認められた。他方原告は、犯罪事実について全面的に否認し、「本件当日の春枝との電話のやりとりの中に、確認書の件は全く話題に出なかった。」等と弁解したが、被疑者である原告において確認書を作成し、乙山春枝に対し押印を求めた経緯等に照らし、原告の前記弁解はとうてい信用できないものと認められた。そこで野田検事は、同年三月三日、次席検事、検事正の決裁を経て、原告を、強要未遂罪で高知地方裁判所に公訴提起した。
4 同2(二)(2)については、検察官が原告の身柄を昭和四八年二月一五日高知刑務所に移監したこと、同日原告の弁護人に対し接見等に関する指定処分を行ったこと、原告代理人が右指定処分について昭和四八年二月二四日高知地方裁判所に準抗告の申立をし、同裁判所が同日、同処分を取り消す旨の決定をしたこと、原告代理人が弁護人であった高知地方裁判所昭和四七年(む)第三四五号一般的指定書取消申立事件で、同四七年一二月一五日一般的指定書による接見等に関する指定処分を取り消す旨の決定があったことは認めるが、その余は否認する。
いわゆる一般的指定は、捜査機関において当該事件が刑事訴訟法第三九条第三項に規定する接見指定権を行使するのが相当と思料するとき、その事件につきあらかじめ弁護人等に通知して注意を喚起し(したがって、一般的指定を文書化した一般的指定有は、この通知のための連絡文書にすぎない。)、じ後の具体的指定を円滑かつ正確に行い、弁護人の接見手続を円滑化するための制度であって、何ら処分性を有するものではない。
5 同2(三)(1)については、原告が須崎署捜査主任官及び検察官に対し、乙山春子、乙山春枝に電話をかけたことがないこと、夜一一時ころ乙山母子及び丙川一郎から計六回にわたる電話がかかってきたこと、確認書に押印を強要したことはないことを述べたことはそれぞれ認め、その余は否認する。
6 同2(三)(2)の事実については、正木警部補がそのような内容の証言をしたことは認めるが、同人が偽証したとの点は争う。
7 同3及び4は争う。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因1の事実及び同2(一)のうち(1)、(3)、(6)(ただし②を除く。)の各事実は、当事者間に争いがない。
二 まず、須崎署警察官による原告の逮捕が違法であるとの主張について判断するに、右争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。
1 昭和四八年一月二八日午後八時四五分ころ、須崎署上ノ加江駐在所の岡巡査に対し、乙山春枝から電話があり、同女は要旨次の内容を述べた。
(一) 同女は翌二九日、須崎事件の証人として出廷することになっているが、同事件の公訴事実に関する記載がなされた「確認書」と題する書面を、原告が乙山春子を通じて回してきた。
(二) 同女は原告から、確認書への押印を要求されていたが、先程原告と電話で話したときに、押印を断ったところ、原告は怒って、「そんなことを言いよったら親子がどうなってもかまわんか。」と言って、同女をおどした。
2 同日午後九時一〇分ころ、乙山春枝の母である乙山春子から岡巡査に電話があり、同女は要旨次の内容を述べた。
(一) 先程原告から電話があり、確認書を返してくれとのことであったので、それは乙山春枝のところにある旨答えたところ、原告は怒って、「うそを言うな、おまえらあ、そんなことを言いよったら親子がどんなことになっても知らんぞ。」と言って、同女をおどした。
(二) 原告は、確認書に押印してくれと今までいろいろ言ってきた。
3 更に、翌二九日正午過ぎころ、丙川一郎が須崎署に出頭し、松井太警部補に対して確認書の写しを提出するとともに、須崎事件について原告が確認書を作成し、乙山春枝とその母親に押印を求めたところ、それを拒否されたことから、同人らを電話でおどしているらしいので捜査してもらいたい旨届け出た。
確認書には、乙山春枝の主張と甲野松夫の返答が記載された後に、原告の仲裁文句が記され、最後に、「乙山春枝それでは私は確認して居りませんから頭髪以外の事は取消します。甲野松夫そしたら私は酒を飲んでいて全然記憶がないから髪を曳いていたら私が悪いからこらえてや。乙山春枝はい承知しましたと円満に解決する。」旨の記載がなされていた。
4 昭和四八年一月二九日、乙山春枝は、須崎署において、要旨次の内容の供述をした。
(一) 乙山春枝は、母と別居して美容院をやっているが、昭和四八年一月二〇日ころ母の住居地に帰ったときに、母から確認書を手渡され、原告がこれへの押印を要求していることを聞かされた。しかしながら確認書には丙川五郎の名前も記載され、須崎事件の事実関係にもふれているので、乙山春枝は、自己の押印が問題を惹起してはならないと考えて、確認書を母に返した。
(二) 同月二七日昼過ぎころ、乙山春子が乙山春枝方を訪れ、前日原告と甲野松夫夫婦が乙山春子方に来て、丙川五郎とは話がついているし、確認書は乙山春枝についてだけであるから押印してくれと言った旨伝えて、確認書を再度乙山春枝に渡したが、同女は丙川五郎の名前が記載されていることを理由に押印を拒み、母に確認書を返した。
(三) 翌二八日、乙山春枝は、午前一一時ころから午後六時ころまで高知市へ買物に行き、帰宅後、食料品店である丙川五郎方へ買物に行った際、同人の妻から、乙山春子から電話があった旨聞いたので、同所から母に電話をした。すると、乙山春子は、夕方原告から電話があり、「春枝を隠しておるろう。春枝を出せ。」と怒って言うので、「娘は家に来てない。」と答えたところ、原告は「嘘を言うな。」などと怒り、こわいから、乙山春枝が原告に電話をしてきれいに話をしてくれと言った。
(四) そこで、乙山春枝は、同日午後八時ころ、原告に電話をかけ、「母に電話をしたらしいが、私はこの件については印を押せれん。」などと話したところ、原告は「丙川君とは関係がないので、その書類に間違っている点があれば訂正して印を押して来てくれ。」と言っていたが、乙山春枝が「間違っている点もあるし。」と言うと、原告は急に怒り出し、「どこが間違っておらあ、その文章を今読んでみよ。」と言うので、乙山春枝が「今持ってない。」と言うと、原告は、「どうしても印をつかんというがじゃったらこちらにもやり方がある。お前らあ親子はどうなるかおぼえちょけ。」とどなって、ガチャンと電話を切った。
(五) 乙山春枝は、こわくなり、原告におどされた状況を電話で岡巡査に話し、更に、母にも電話で話した。
(六) 乙山春枝は住居地で一人暮しであり、父は既に死亡し、母と妹が本籍地で暮しているもので女ばかりの家族であるので、原告からおどされて本当に困っている。
5 昭和四八年二月九日、乙山春枝は、その住居地において、須崎署の正木警部補に対し、要旨次のとおり供述した。
(一) 確認書の内容にあるように、昭和四六年一一月六日に、甲野松夫方で事件についての話合いをしたことはない。
(二) 同月四日の夕方に、母と二人で甲野松夫方を訪ねたことがあり、その時、同家には甲野松夫夫婦、原告他一名がおり、母が、乙山春枝の髪を甲野松夫が引っ張った理由についてただしたところ、同人は右事実を否定していた。話の途中で原告は、用事のため帰宅した。その後、甲野松夫は右事実を認めて謝罪したので、乙山春枝とその母は帰った。事件について話合いをしたのは、この一回だけである。
6 昭和四八年二月九日、乙山春子は、須崎署上ノ加江駐在所において、正木警部補に対し、要旨次の内容を供述した。
(一) 同年一月一五日、原告の妻が乙山春子方に来て、「これを読んで、かまんかったら判を押してくれ。いかんかったら押さいでもかまん。」と言って、確認書を手渡した。翌日、乙山春子は、知人を介して確認書を乙山春枝に渡した。
(二) 同月二五日ころ、乙山春枝が来て、確認書に判を押してよいかどうか迷っているとの相談があったので、乙山春子は確認書を受け取って預かった。
(三) 同月二六日午後九時過ぎころ、原告、乙山竹夫夫婦、甲野松夫夫婦が乙山春子方に来て、原告が、同女に対し、丙川五郎と仲直りの酒を飲んだこと、確認書は丙川五郎には関係ないことなどを述べて、確認書への押印を求めたので、乙山春子は、それで甲野松夫、乙山竹夫の罪が軽くなればよいと思い、乙山春枝から判をもらってくる旨約した。
(四) 翌二七日午後、乙山春子は乙山春枝方を訪れて、前日の原告の話の内容を伝えて、確認書を渡し、押印するよう言ったが、その場に居合わせた丙川五郎が仲直りの酒を飲んだことを否定し、乙山春枝も、確認書を他の人に見せて本当に罪が軽くなるようなら押印する旨述べるにとどまった。
(五) 翌二八日の昼間、乙山春枝は母に電話して、「見てもろうたところが、これは偽証罪になるから、私は判を押さん。」と言って確認書への押印を拒否した。
(六) 同日午後七時前ころ、原告から乙山春子に電話で、確認書はどうなったかという問い合わせがあったので、「春枝がまだ持ってきていない。」と答えると、原告は、確認書を親戚の甲野某にことづけてくれと言った。乙山春子は、電話で乙山春枝に連絡をとろうとしたが、とれなかった。
(七) 同日午後八時ころ、原告から乙山春子に電話があり、同女が丙川一郎と事件の話合いをしている旨難詰し、乙山春枝を隠しているだろうと言うので、乙山春枝は家に来ていない旨答えると、原告は怒ったような声で、「わしは春子さんらを見損うちよった。これから先おまんら親子のことはどうなろうと知らん。」と荒々しく言って、電話を切った。
(八) 乙山春子は、七年前に夫を失い、女手一つで一男二女を育ててきた。原告は、乙山春子の遠い親戚であるが、甲野松夫、乙山竹夫とも親戚であり、原告から(七)のように言われて、乙山春子はおそろしくなった。
(九) そこで、乙山春子は、乙山春枝と電話で連絡をとろうとしたが果たさなかったので、丙川一郎に事情を話しておいたところ、午後九時過ぎころ、乙山春枝から電話があったので、原告へ弁明の電話をかけるよう頼んだ。ところが、間もなくして、原告から乙山春子に電話があり、原告は、「春枝が正体をあらわした。今日は須崎へ行っちゃせん、居ったじゃいか。嘘も猿芝居もいいかげんにせよ。」と怒って言って、ガチャンと電話を切った。乙山春子は、おそろしくなり、すぐに、須崎署上ノ加江駐在所に電話して、あらましを話した。
7 昭和四八年二月九日、丙川一郎は、須崎署上ノ加江駐在所において、要旨次の内容の供述をした。
(一) 丙川一郎は、丙川五郎の父親である。
(二) 昭和四八年一月二八日午後八時ころ、丙川一郎が自宅で風呂に入っていると、乙山春枝が電話を借りに来た。乙山春枝は困ったような声で電話で話しており、また、受話器から怒ったような相手方の声が聞えて来たので、丙川一郎は、風呂から出てすぐに乙山春枝のところに行って、耳を受話器に近づけて聞いたところ、相手方は原告で、「どこが間違うておりゃあ。どうしても判を押せんということになりゃあ、こちらにもやり方がある。お前ら親子がどうなるかおぼえちょれ。」などと言って電話を切った。丙川一郎は、乙山春枝から事情を聞いて、同女の持っていた確認書を見せてもらった。
(三) 丙川一郎は、確認書の記載は事実に反すると考え、そのコピーを作成して、警察官に提出した。
8 正木警部補は、乙山春枝、乙山春子及び丙川一郎の各供述によって原告が強要未遂の罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると考え、更に、原告が地元で隠然たる勢力を有すること、本件犯行は須崎事件の被害者をして被告人に有利な証言をさせようとするものであり、裁判の公正を害する悪質な行為と認められること、原告が被害者、関係者に圧力をかけて罪証を隠滅するおそれが多分に認められることを理由に、逮捕の必要性がある旨上司に報告し、上司たる警部奥村巌は、昭和四八年二月一二日、須崎簡易裁判所に対し逮捕状を請求し、発付された逮捕状に基づいて、原告は翌一三日午前九時二〇分自宅において逮捕された。
9 原告の逮捕直後、正木警部補が原告に対し、逮捕状記載の被疑事実の要旨及び弁護人選任権を告げて、弁解の機会を与えたところ、原告は、確認書を乙山春子に渡して、同人親子の判を押してもらうつもりでいたが、乙山春枝が押印を断ってきたことはなく、同女を脅したことはない旨述べて犯行を否認した。
以上の事実が認められるところ、これによれば、本件被疑事実に係る犯行は、須崎事件の証人調べ期日の前日に、同事件の被告人の親戚である原告が、同事件の内容に関する記載のなされた書面への押印を、証人となる予定の同事件の被害者とされている者に対し、強いて求めるというものであり、裁判の公正を害しかねない悪質なものであること、乙山春枝及び乙山春子は、いずれも原告との電話でのやりとりの直後に警察官にその状況を届け出たのであり、両名の供述は一応信用できるものであったこと、丙川一郎は脅迫電話の内容の一部を傍で聞き、更にその直後乙山春枝からその内容を聞いた旨述べていたこと、原告は地元の有力者であり、かつ電話による強要未遂という本件犯行の特徴を考えると罪証隠滅のおそれが強いと考えられることなどの事情が窺えるのであって、これらの事情下で原告に対する逮捕状を請求し、同人を逮捕した須崎署警察官の行為には何ら違法な点は存しないというべきである。
三 次に、検察官による原告の勾留請求が違法であるとの主張について判断するに、前記争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。
1 昭和四八年二月一四日、原告は、須崎署において、正木警部補に対し、要旨次の内容の供述をした。
(一) 昭和四六年一一月三日の晩、原告は、須崎事件の公訴事実記載の現場を通ったが、丙川五郎が甲野松夫を殴りつけ、甲野松夫が負けていた状況であった。
(二) 同月五日、丙川五郎の方から友人戊田十郎をたてて、甲野松夫のいとこである原告のところへ謝罪にきたので、原告は、甲野松夫の告訴を取り下げさせることを約束した。
(三) 翌六日午後一時三〇分ころ、乙山春枝が母親と共に原告方を訪れ、甲野松夫が丙川五郎にやられたということで警察に訴えているというが、丙川五郎と乙山春枝が被害者である旨言うので、甲野松夫方で話し合うこととなった。
(四) 甲野松夫方では、同人と乙山春枝との言い争いになったので、原告が仲に立ち、各人の言い分を主張させた後、「春枝の主張する石を投げたことについては、舗装道路で石はないから主張を取り消せ。松夫は酒を飲んでいて記憶はないというが、髪を引いていたとしたら春枝に謝れ。」と言って同意を求めたところ、双方が納得し、甲野松夫は春枝に謝って、その件は解決した。
ところが、その後、甲野松夫、乙山竹夫が逮捕されたので、原告は義憤を感じた。
(五) 昭和四八年一月二九日に、須崎事件の証人として乙山親子が証言することとなったが、証人申請の際の検察官の口ぶりから、昭和四六年一一月六日に甲野松夫が乙山春枝に謝罪した事実を乙山親子に証言させようとする気配が察せられた。
しかし、甲野松夫は、不服があったのに、円満に解決しようとする原告に押しつけられて、無理に謝罪をしたようなものであるから、その状況を、立ち会った者全員で話せば正しく伝わるが、乙山親子だけの証言では、謝罪したことだけが強く打ち出され、真相が曲げられるおそれがあり、甲野松夫に不利となることが考えられたので、そのときの状況を書類にして、出席者の記名押印がなされたものを弁護士に渡し、次の公判に提出してもらうつもりで、昭和四八年一月一〇日ころ、確認書を作成した。
(六) 確認書を原告が持参したのでは、内容に間違いがあっても、乙山親子が原告に遠慮してそれを指摘せずに押印するようなことになってはいけないので、原告の妻に持って行かせた。
(七) 原告は、確認書への押印について乙山春子に催促することはなかったが、同年一月二六日午後七時三〇分ころ、乙山竹夫夫婦、甲野松夫夫婦が公判期日を知らせに来たので、証人となる予定の乙山春子方へ、右両夫婦を伴ってあいさつに出かけた。乙山春子は、確認書には間違っているところはないこと、翌日娘の判をもらってくるつもりであることなどを原告に言った。
(八) 同年一月二八日午後一一時ころ、乙山春子から電話があり、まだ娘の判をついてもらってないが翌朝までには間に合わせる旨言うので、原告は、「大事なものじゃないから、そんな無理をすることはない。」と返答した。
その後間もなくして、丙川一郎から電話があり、警察には心易い人が数々おるなどと言っていたが、更に再度電話があり、どこからか原告が翌日の法廷で嘘の証言をさせるように仕組んでいるとの電話があったがそんなことがあるのかと言うので、原告がこれを否定すると、丙川一郎は了解した。
その後の午後一一時三〇分前ころ、乙山春子から右同旨の電話があり、原告を非難するので、原告は弁解しようとしたが、乙山春子は逆上して静まらず、怒ったように電話を切った。
約五分後に再度乙山春子から電話があり、確認書に押印をしないと言うので、原告は、「強要するものじゃないから判をつかんでもかまん。人からかけてきた電話や、自分の感情で真相は変るものじゃないから、一時の興奮で嘘の証言をしたら、これから先々長い一生で良心をとがめて気まずい思いをして暮さないかんことになるから、落ち着いて判断をして、やりなさい。」と言ってやると、乙山春子は普通の声にもどって、「おやすみなさい。」と言って電話を切った。
(九) 同日午後一一時三〇分ころ、乙山春枝から電話があり、同女は興奮したような声で、原告が血相を変えて乙山春子に怒ったり、乙山春子に娘を隠しているように言ったことなどを挙げるので、原告は乙山春枝の誤解を正そうと思って、確認書の件を持ち出し、その内容の正確性について尋ねたところ、乙山春枝は、「間違いはないが、使い道を聞いてから五郎さんに不利になるように使うがでなかったら判をつくつもりやった。」と答えた。そこで、原告は、嘘の証言によって甲野松夫らが罰せられたら乙山春枝達は一生恨まれること、甲野松夫夫婦、乙山母子、原告の話合いを確認して書面で提出すれば一番真実に近いこと、間違いがあれば訂正するし、乙山春枝が押印する必要はないことなどを述べると、乙山春枝は、「わかりました。自由にさしてもらいます。」と言って電話を切った。
(一〇) 翌二九日午前一〇時三〇分ころ、公民館入口で丙川一郎に会ったので、原告は同人に前日の乙山春枝との電話でのやりとりの一部始終を話し、「おまんも電話口で聞きよったろうが、ひとつも無理なことは言やせんろうが。」と言うと、同人は、「無理は言やせん。わしも電話口で聞きよった。」と言ってくれた。
(一一) その二、三日後、原告の他は誰も押印していない確認書を乙山春子が原告方にもどしに来た。
(一二) 以上のように、原告は、確認書に押印させるために乙山春枝や乙山春子を脅したことはない。
(一三) 乙山春子は、原告の妻のいとこである乙山春夫の妻である。昭和三二年ころ、乙山春子が子供を連れて乙山春夫方へ押しかけて来たので、原告が、当時の乙山春夫の妻に因果を含めて離別させ、乙山春子を乙山春夫の妻にした。その後昭和四一年ころ、乙山春夫が病死した際、原告は同人から乙山春子のことを頼まれたので、乙山春子一家にはずい分と世話をしてやったことがある。
丙川一郎とは三〇年来の交際であり、丙川五郎は原告の長男と同級生である。
乙山春枝は、丙川五郎と同級生であり、卒業後、原告の甥の妻に髪結いの技術を習い、現在矢井賀で美容院を経営している。乙山春枝は丙川五郎と深い仲になっていた様子で、原告は乙山春子に、二人を夫婦にしたらと言っていた程である。
(一四) 須崎事件の関係者は皆、原告の親戚や知人であり、原告としてはどちらを引くというつもりはないが、警察の事件処置や裁判のやり方に片手落ちがあるように思われて、原告のできるだけの力でなんとか真相を明らかにしたいと考えている。
2 須崎署警視明坂繁盛は、被害者等の供述によって本件被疑事実が認められるとして、起訴相当の意見を付して、昭和四八年二月一四日午後、原告の身柄を高知地方検察庁に送致した。
3 昭和四八年二月一四日、野田検事が、高知地方検察庁において、原告に対し、逮捕状記載の被疑事実の要旨及び弁護人選任権を告げて、弁解の機会を与えたところ、原告は、次の内容の供述をした。
(一) 確認書の作成、乙山春枝への押印要求の各事実及び昭和四八年一月二八日夜乙山春枝から電話がかかってきたことは間違いない。
(二) 須崎事件の公判を有利にしようとしたことはなく、確認書についても訂正が可能であることを言っておいた。
(三) 昭和四八年一月二八日夜乙山春枝から電話があった際、確認書のことは話の中に出なかった。従って、怒って脅迫文句でどなりつけたことはないし、無理に確認書に押印させようとする気持もなかった。
4 昭和四八年二月一五日、検察官は原告の勾留請求をなし、同日発付された勾留状に基づいて、原告は高知刑務所に勾留された。
以上の事実が認められるところ、勾留請求の時点で野田検事の手元に存したと認められる資料(既に引用した各供述調書等)によれば、原告が本件被疑事実に係る罪を犯したと疑うに足りる相当な理由及び罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由が十分認められたのであり、原告の勾留請求をなした検察官の行為には何ら違法な点は存しないというべきである。
なお、原告は、検察官がいわゆる一般的指定書による違法な指定処分をなして、原告が弁護人と接見交通する権利を違法に阻止した旨主張するが、いわゆる一般的指定がなされたのみでは接見交通権侵害のおそれはいまだ具体的なものにはなっておらず、不法行為による損害賠償請求権(国家賠償法第一条第一項)の発生原因の主張としては不十分というべく、結局、原告の右主張は失当である。
四 更に、検察官による公訴提起が違法であるとの主張について判断するに、前記争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。
1 昭和四八年二月一七日、乙山春枝は、須崎署において、野田検事に対し、要旨次の内容の供述をした。
(一) 須崎事件に係る事実が起った当時、現場付近に原告はいなかった。
(二) 二5(二)の事実。その際、乙山春枝と甲野松夫との間で言い争いのようになったが、原告がこれを止めて、「見てない者には、両方の言い分を聞かんと判らん。」と言ったので、各人がその言い分を述べた。
(三) 原告は、証人として須崎事件の法廷に出てきて、現場には居合わせなかったのに、「自分は事件現場を見ていたが、丙川五郎の方が相手に向って積極的にかかって行っていた。」などと平気な顔をして言うので、乙山春枝は、原告は平気で嘘をつく人かなと思ってびっくりした。
(四) 昭和四八年一月一六日の昼間、乙山春枝は、母と出合った際に、確認書について聞かされ、同日午後一〇時ころ、他人を介して確認書を受け取ったが、これを読んだところ、自分に関することだけではなく丙川五郎に関することも書かれてあり、しかも事実と違うことも書かれてあるので、とても判を押す気にはなれなかった。翌一七日、乙山春枝は母の家へ行って、判を押さないままで確認書を返した。
(五) ところが、同月二七日午後一時過ぎころ、母がやって来て、確認書を差し出し、「これはあんたに全然関係のないことじゃ。あの二人の罪を軽うしちゃらないかんから、これへ判を押しや。この件は、丙川君のお父さんや丙川君、甲野松夫、乙山竹夫などと関係者の間できれいに話がすみ、罪についてもいかんということで皆が酒を飲んで和解したと甲野松夫が言っていた。」と言ったが、たまたま丙川五郎が来ていたので、母が右事実について尋ねたところ、同人はきっぱりと、「そんな酒は飲んじゃあせん。」と否定した。そこで乙山春枝は、「この書類はこういうことに詳しい人に見せて相談してみるから」と言って確認書を預ったが、丙川五郎の母が、この書面を夫に見せて相談した方が良いと言って、確認書を乙山春枝から受け取って帰って行った。
(六) 二4(三)の事実。ただし、午後七時ころ、乙山春枝が丙川一郎方へ行ったのは、確認書を返してもらうためであった。
(七) 二4(四)の事実。
(八) 原告からの電話が切られた後、乙山春枝は、丙川一郎にだいたいの事情を話し、更に、原告からおどされてこわかったので母に電話したところ、母も、今原告から電話でおどされたのでこわい旨言った。
(九) 二4(六)の事情で、警察へ届け出ておいた方が良いと思い、上ノ加江駐在所へ届け出た。
(一〇) 原告に対しては厳重処罰を望んでいる。
2 昭和四八年二月一七日、乙山春子は、須崎署において、野田検事に対し、要旨次の内容の供述をした。
(一) 昭和四六年一一月四日、甲野松夫方へ娘を連れて行ったところ、甲野松夫夫婦、原告らがいた。髪を引っぱった、引っぱらないの言い争いになったが、原告が仲に入って、「その場におらんかった者には両方の言い分を聞かんと判らんけんど。」と言ったので、甲野松夫と乙山春枝がそれぞれ言い分を述べた。途中で、原告は、妻が迎えに来たので帰り、その後も乙山春枝と甲野松夫は話合いを続けたが、結局、甲野松夫は、「酔うとったから髪を引っぱったことは誠にすまん。」と言って謝った。
(二) 二6(一)、(二)と同旨の事実。
(三) 二6(三)、(四)と同旨の事実。
(四) 二6(六)、(七)と同旨の事実。
(五) 二6(九)と同旨の事実。
(六) 約七年前に死んだ夫が原告の親戚になるが、夫の死亡後は、乙山春子は原告とほとんど付き合うことはなく、援助を受けるようなことは全くない。
(七) 原告に対しては寛大な処分を望む。
なお、右(一)ないし(六)の内容の供述後、野田検事が供述調書を作成し、乙山春子に署名押印を求めたところ、同女は、地元の有力者たる原告の圧力による失職のおそれや、上ノ加江地区で原告の仲間から嫌がらせをされるおそれがあるからとの理由で、署名押印を拒否したので、野田検事が説得した結果、(七)の供述を記載することにより、同女はようやく調書に署名押印した。
3 昭和四八年二月二三日、原告は、高知地方検察庁において、野田検事に対し、要旨次の内容の供述をした。
(一) 三1(一)と同旨の事実。
(二) 原告は、確認書を作成し、乙山春子を通じて乙山春枝に渡し、判を押すよう求めたが、本年一月二八日の夜、乙山春枝が原告方に電話をかけてきた時に、原告が、「おまえら親子はどうなるか判らんぞ、覚えちょけ。」と言ったことはないし、穏やかに話をしただけで怒鳴ってはいない。
4 昭和四八年二月二四日、検察官は高知地方裁判所に対して原告の勾留期間延長を請求したところ、勾留期間は同年三月三日まで延長された。
5 昭和四八年二月二六日、丙川一郎は、高知地方検察庁において、野田検事に対し、二7(二)、(三)と同旨の内容の供述をした。
6 昭和四八年三月二日、原告は、高知地方検察庁において、野田検事に対し、要旨次の内容の供述をした。
(一) 三1(三)と同旨の事実。
(二) 原告が確認書に押印させようとした理由は、昭和四七年一一月ころの須崎事件の公判が終った直後、藤原充子弁護士から「今度法廷で証言してもらうことについて、その証人の人に判り易いようはきはき言えるよう話をしておきなさい。」と言われたからである。
7 昭和四八年三月三日、原告は、高知地方検察庁において、野田検事に対し、要旨次の内容の供述をした。
(一) 三1(七)と同旨の事実。
(二) 三1(八)第一段と同旨の事実。
(三) 昭和四六年一月二八日の晩、乙山春枝から電話があり、同女は興奮した調子で、「おじちゃんは血相を変えてお母ちゃんのところへ怒鳴り込んできたらしいが、何故そんなことをするぞね。」と言った。原告は、これに対して極力弁解に務めただけで、この時確認書のことは全然話題に出なかった。
8 同日、野田検事は、決済を経て、本件公訴事実について原告に対し公訴を提起した。
以上の事実が認められるところ、これによれば、原告は甲野松夫及び乙山竹夫こそが須崎事件の真の被害者であると確信し、甲野松夫らに有利となる活動をしてきたこと、一方、乙山春子は原告をおそれており供述調書への署名押印を渋ったこと、乙山母子は原告との電話でのやりとりの直後に警察官に状況を届けたことなどの事情が窺えるのであって、このような事情のもとで、検察官が原告の弁解を措信せず、乙山春枝などの供述は十分信用できると判断して、犯行を否認する原告に対し公訴を提起した行為には、何ら違法な点は存しないというべきである。
五 原告は、捜査官による事実の捏造が須崎事件及び本件公訴事件のいずれについてもなされた旨主張し、原告本人尋問(第一回)の結果中には右主張に沿うかの如き供述があるが、前項までの認定事実に照らしてにわかに措信し難く、本件全証拠によるも右主張事実を認めるに足りない。
六 最後に、原告のアリバイ主張に対して捜査官が違法捜査を継続し、かつ正木警部補が偽証した旨の原告主張事実について判断する。
正木警部補が、本件公訴事件の公判廷において、捜査段階で原告からアリバイの主張がなかった旨証言したことは、当事者間に争いがない。これに対し、原告は、昭和四八年一月二八日午後八時ころには須崎の造船所へ行って不在であったので、乙山母子に電話をかけるのは不可能である旨捜査段階で述べていた旨主張し、《証拠省略》中にも、原告は、捜査段階において、当日は船おろしのために須崎の四国プラスチック造船株式会社に行っており、午後八時ころには上ノ加江にいないことを述べた旨の供述がある。
しかしながら、《証拠省略》によれば、昭和四八年四月二三日行なわれた本件公訴事件の罪状認否の際には、原告は起訴状記載の日時場所で乙山春枝と電話のやりとりをしたことを認めており、午後八時ころのアリバイ主張をしておらず、昭和五〇年三月一七日の第八回公判において初めて前記のアリバイ主張をなしたこと、これを受けて捜査官がその裏付け捜査をしようとしたが、四国プラスチック造船株式会社は昭和四九年九月に倒産しており、原告主張事実の確認ができなかったことが認められ、また、正木警部補に対する原告の供述調書には、本件被疑事実とは異なって乙山春子から午後一一時ころ電話があった旨の記載や、須崎事件についての警察の事件処理や裁判のやり方に片手落ちがあるように思われ、原告の力で真相を明らかにしたいと考えている旨の記載など原告の供述をほぼ正確に録取したと思われる記載が存するところ、更に、原告本人尋問(第一、二回)における原告の供述態度や供述内容に照らして、原告は自己の意見を十分主張する性格であることが窺えるのであって、このような性格からしても、真実アリバイ主張がなされていたとすれば、それが記載されていない調書に原告が署名指印することはまず考えられないといえること、以上によれば、前述の本件公訴事件の公判や原告本人尋問(第一回)における原告のアリバイ主張に関する供述はいずれも信用できず、本件全証拠によっても原告主張事実を認めるに足りない。
七 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 山口茂一 裁判官 大谷辰雄 裁判官古賀寛は転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 山口茂一)
<以下省略>